市史跡「虎御前山城」

・指定日:昭和56年2月19日

・所在地:中野町、湖北町河毛、湖北町別所地先

 虎御前山城(とらごぜんやまじょう)は、戦国時代、浅井氏の居城である小谷城を攻略するため、織田信長が築いた付城(つけじろ、=陣城)です。元亀元年(1570)6月、姉川の合戦で信長に敗れた浅井長政は、小谷城に籠城。信長は、横山城(堀部町)に前線基地を置き、浅井攻略をはかりますが、元亀3年(1572)7月以降は小谷城包囲のため、対面にある虎御前山に砦を構え持久戦に備えました。虎御前山では大規模な築城が行われ、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)が城番(定番)に任命されました。虎御前山

 虎御前山(標高約230m、写真上中央)は、四方の眺望が効く独立丘陵で、小谷城からわずか500m余りの位置にあります。信長は山全体に家臣を配置させ、麓から北へ多賀貞能(たがさだよし)、蜂屋頼隆(はちやよりたか)、丹羽長秀(にわながひで)、滝川一益(たきがわかずます)、堀秀政(ほりひでまさ)、信長、秀吉、佐久間信盛(さくまのぶもり)、柴田勝家(しばたかついえ)の陣が並びます。

 信長の一代記として知られる『信長公記(しんちょうこうき)』では、虎御前山城について次のように記しています。

巧みに仕上げられた砦の結構なことは、これまで見聞した多くの砦に見られぬもので、みな眼を見張ったものである。信長公がお座敷から北をご覧になると、浅井・朝倉勢は高峰大嶽(おおづく)へ登って砦に籠もり、いかにも攻略しがたい様子。西は琵琶湖の水が満々と湛(たた)えられ、はるか向こうに霞むのは比叡山八王寺のあたり。(中略)どこを向いても眼に及ぶ限りの景色や頑丈に造られたご普請の有り様など、いずれも口に出しては表現しようもない程素晴らしい眺めであった。(※現代語に改めています)

 虎御前山から東を見ると伊吹山系の肩越しに美濃路へ通じ、西には広々とした田園地帯と琵琶湖が望めます。小谷城との間を北陸自動車道が走り、今も交通の要衝であることを物語っています。また、小谷城に近い北側は急峻で、南側にはなだらかな山裾が広がるなど、まさに小谷城攻めの拠点として相応しい山と言えるでしょう。伝織田信長陣地跡

 その遺構は、一部破壊を受けた部分もありますが、比較的良好に保存されており、山の最高所に位置する「く」の字形の曲輪(くるわ・伝信長陣、写真下)は、北・東・西の三方を高い切岸で防御されており、ここを中心に南側の砦(伝堀秀政陣・滝川一益陣)は堀切と竪堀を使った防御、最も小谷城に近接する伝秀吉陣は、三角形の曲輪を中心に周囲に帯曲輪が設けられ小谷城側に土塁が巡らされるなど、ここが最前線であったことを窺わせます。

 天正元年(1573)8月、小谷城総攻撃が仕掛けられ浅井氏は滅亡、小谷城攻防戦に終止符が打たれ、虎御前山城は廃城となりました。

 “兵(つわもの)どもが夢の跡”をしのばせる虎御前山。春には桜、秋には紅葉と四季折々の自然を楽しむことのできる風光明媚な山として、多くの人々に愛されています。

 (『広報ながはま』平成23年9月1日号より)