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長浜の歩み
豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)
豊臣秀吉像
豊臣秀吉像

長浜城と秀吉
 天正元年(1573年)8月、浅井氏が滅びると、姉川の戦い以来大きな手がらをたてた秀吉に、信長から小谷城と湖北三郡(坂田・浅井・伊香)12万石が与えられました。この時、名前も羽柴秀吉と改めました。小谷城で一冬を過ごした秀吉は、天正2年(1574年)湖岸の一漁村であった今浜に新しい城をつくることを計画し、工事に取りかかりました。今浜は、北国や東国へ通じる交通の要所です。秀吉は、湖北を治めるのにこの地がいかに重要かを鋭く見ぬいていました。琵琶湖を背後にひかえる城には、堀の一部に船着き場のような施設もあったようで、湖上交通を重視していたこともわかります。城の西は、琵琶湖に面し、三方は、三重の深い堀に囲まれていました。堀の一部は、現在お旅所の東を南北に流れる川となっています。城の用水に使われた井戸は、いくつかあったようですが、その一つは現在湖の中に「太閤井戸の跡」として残っています。秀吉は、小谷城から完成した新しい城に移転すると同時に、今浜の地名を「長浜」と改めました。

秀吉の町づくり
 秀吉は、長浜の城下町を繁盛させたいと考え、町づくりにも力をいれました。商人や職人たちを呼び集め、場所を決めて住まわせました。伊部・郡上・呉服などの町名は、小谷城下から移住させた名ごりです。古くから市場として栄えていた平方、箕浦、川道などの商人も移住させました。紺屋、魚屋、呉服屋には商人が集まり、金屋、鍛冶屋には職人が集まりました。ごばんの目のような町割りは、秀吉が後につくった大阪や伏見の町にも見られます。長浜は、秀吉の町づくりの原形となった町です。長浜の城下町は、安土の城下町とともに全国でも早くひらけ、新しい町づくりの先がけとなりました。城下町は、政治、商工業、交通の中心地としてさかえていきました。

秀吉と長浜曳山祭り
 長浜八幡宮でお祭りが行われ始めたのは、秀吉が長浜に城を築いた時からです。秀吉は、「町年寄十人衆」に源義家後三年の合戦の凱旋の様子を表した「太刀渡り」どいう行列を行わせました。これが八幡宮のお祭りのはじめです。その後、秀吉に男の子が誕生し、そのお祝いに長浜の町人へ砂金をおくりました。この砂金をもとに町人たちが曳山をたてて、長浜八幡宮のお祭りで曳くようになりました。これが長浜曳山祭りの始まりと言われています。

秀吉とかかわる史跡
市内には秀吉や長浜城に関わる史跡がたくさん残っています。
太閤井戸の写真
1 太閤井戸
城の用水に使われていた井戸は、いくつかあったようですが、その一つとして「太閤井戸」のあとが知られています。
天守台下の地先50mぐらいの琵琶湖岸にあり、厚さ3mぐらいの板で囲まれていました。
豊国神社の写真
2 豊国神社
秀吉をまつる神社は、江戸時代にこわされましたが、町役人たちが守り、えびす宮ができてからは、その奥の方で祭られていました。
加藤清正の銅像や伝説が残る虎石があります。秋には子ども武者行列が、1月に「十日えびす」が行われます。
長浜城大手門跡の写真
1 長浜城大手門跡
長浜城の正面である大手門があったと言われる場所です。大手門から東へのびる町が大手町で、南の本町とともに城下町のメインストリートでした。現在御旅所付近の交差点にあたります。
長浜城内外堀跡の写真
4 長浜城内外堀跡
内堀と外外堀の間にあった堀です。内堀と外堀の間には、家臣団の屋敷が建ち並び、内外堀と外外堀の間には、鍛冶屋などが集まっていた「たたら町」があったといわれています。
長浜城外外堀跡の写真
5 長浜城外外堀跡
長浜城の三重の堀のうち、一番外側の堀です。当時は、幅30mほどあったといわれています。
家臣団屋敷跡の写真
6 家臣団屋敷跡
内堀と二重の外堀との間には、家来の屋敷がありました。記録によると、馬屋や蔵の近くに、守田屋敷・伊右衛門屋敷という地名が残っています。この付近が武家屋敷であったという絵図も知られています。

史跡地図
参考資料
たんけん「秀吉さんのまち探し」 長浜歴史博物館
長浜曳山祭りワークシート 歴史文化啓発推進協議会
曳山博物館ホームページ
読本 長浜の歴史 長浜市立教育研究所

リンク
曳山博物館
長浜城歴史博物館