
天正10年(1582)信長亡きあとの清洲(きよす)会議で長浜城は柴田勝家(しばたかついえ)の甥の勝豊(かつとよ)が城主となりました。
しかし、はやくもその年の11月、秀吉は勝豊を降伏させて長浜城を取り返し、賤ヶ岳(しずがたけ)合戦の拠点としました。
その後長浜城は山内一豊(やまうちかずとよ)、内藤信成(ないとうのぶなり)、内藤信正(ないとうのぶまさ)を城主に迎えました。豊臣氏が滅亡すると、長浜城は跡形もなく取り壊され、石垣など多くの材料が彦根城の建設のために使われました。今見られる大通寺台所門・知善院表門・彦根城天秤櫓(てんびんやぐら)は長浜城の遺構であると言われています。
現在の長浜城は、昭和58年(1983)に市民の熱意と寄付金などで建設され、内部を歴史博物館として開館しました。


縄文時代早期に人々の生活が始まって以来、湖北地域は、様々な生活相を示しながら生成・発展してきました。
ここでは、湖北で発掘された縄文時代早期から奈良・平安時代までの遺物を通して、湖北人の生活や文化を考えていきます。

奈良時代から安土桃山時代にかけて、湖北の人々は様々な仏教文化を受容し、そこから質・量ともに充実した宗教文化を創出してきました。ここでは、統一された地域的特性をもたない湖北の宗教文化の諸相をさぐり、鎌倉時代以降急速に根づいていった湖北浄土真宗教団と人々のかかわりを考えます。

湖北は、室町時代末期から安土桃山時代にかけて、織田信長、豊臣秀吉の天下統一への胎動のなかに巻き込まれていました。とくに長浜は、秀吉が一国一城の主となった最初の拠点であり、彼の城下町経営の基本パターンを醸成したところでもあります。

安土桃山時代から江戸時代は海北友松や小堀遠州などの湖北出身者が「中央」でその才能を開花させた時期であり、また江戸時代中期以降の発展する長浜町とその周辺地域で庶民文化を育んできた時期でもありました。

近世の胎動過程で堺と並ぶ火縄銃の二大生産地のひとつとして重要な役割をにない、湖北をクローズアップさせた国友鉄砲鍛冶集団は、近世初期の大量生産期以降需要の激減とともに漸時低迷し、様々な活路を見出そうとしました。また、天体望遠鏡などを作った科学者一貫斎を生み出しました。

企画展・特別陳列など、約1か月半ごとにテーマを変えて展示を行なっています。

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