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子連虎図 堀田正民画 |
1幅 |
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絹本著色 小堀遠州像 |
1幅 |
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絹本著色 田中吉政像 |
1幅 |
寄贈 |
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直槍 銘江州坂田郡下坂作 |
1本 |
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刀 無銘 |
1口 |
寄贈 |
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木下秀吉書状 徳山右衛門宛 |
1幅 |
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| 7. |
羽柴秀吉書状 遠山佐渡守宛 |
1通 |
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| 8. |
東福門院消息 将軍(徳川家光)宛 |
1幅 |
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など |
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堀田正民(1791から1838)は、坂田郡宮川村(長浜市宮司町)に政庁があった宮川藩1万石の藩主であった人物。第5代藩主正穀(まさざね)の長男として寛政3年江戸で生まれた。幼名は友次郎という。
文化12年(1815)25歳で家督を相続。伏見奉行や、江戸城内の礼式に際して将軍と各大名との取次を行なう奏者番など重職を歴任した後、天保9年(1838)48歳で没している。
本図は、仲睦まじい親子の虎を中央に大きく描き、その上に被さるように枝を広げる松樹には、四羽の鵲がとまっている。微笑ましい親子の様子を、鵲(かささぎ)があたかも祝福するかの様に表現されている。豹柄の毛皮で描かれた子虎が、親の足下でじゃれている。子虎が豹の毛並みのような表現なのは、中国・朝鮮では、虎と豹が同種・同類と考えられていたからであろう。落款から文政3年(1820)に描かれたことが判る。掛軸裏面上部の八双裏に墨書があり、原本は寛永13年(1636)京都に下向した春日局に徳川家光が贈った「虎図」を妙心寺麟祥院に春日局が寄進し、伝来したものであることが判った。当時は、南宋5代皇帝・理宗帝の作と考えられており、箱上墨書にも「南宋理宗帝虎画幅写」とある。文政3年(1882)に京都へ大番で下向した正民が模写を依頼し、12月18日に完成したものである。「文政庚辰臘月京城守衛暇挙写之/紀正民」と落款がある。原本は、現在妙心寺塔頭・東海庵に伝来し、明朝16世紀の製作と伝えている。正民の作画過程がよく伺える貴重な資料である。
【裏面墨書】
寛永十三年夏春日局参内ヲ聴サレテ
京師に赴キ、妙心寺塔頭麟祥院ニ
寓居ス。時ニ大猷院殿ヨリ蜷川喜左衛門
某ヲ御使トシテ御書ヲ下サレ、理宗帝
虎ノ画幅及、徳善院玄以法印秘蔵ノ壺
ニ 茶ヲ入レテ恩賜セラル。其後画幅ヲ
麟祥院ニ寄附アリテ、千載ノ宝什
トスト云。文政二年庚辰京城守衛ノ
暇請テ以模写ス。時ニ十二月十八日也。
紀正民 印 印
[絹本著色 縦157.7センチメートル×横97.7センチメートル]
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子連虎図 1幅 |
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江戸初期の茶人・技術官僚として著名な小堀遠州(1579〜1647)の肖像画である。小堀遠州は坂田郡小堀村(現在の長浜市小堀町)の生まれで、大名茶の確立を行い、朝廷・幕府関連施設の建造物や庭園設計に多くの業績を残し、日本の建築史・庭園史に名を残したことで知られる。
画像は烏帽子(えぼし)をかぶり、赤色の狩衣(かりぎぬ)を着用、水色の指貫(さしぬき)をはく。脇息(きょうそく)に寄りかかり、顔を少々上げ、目をつむって思索に耽(ふけ)る姿に描いている。脇息の上には、広げられたままの書物があり、左膝の向こうには太刀がおかれている。遠州の菩提寺・孤篷庵に伝来する狩野探幽画と伝わる小堀遠州像の写と判断できる。しかし、彩色は原本よりも濃く、また顔面に髭(ひげ)が蓄えられ、表情も少々硬くなっている点が相違する。
落款(らっかん)には「鴎嶼守約拝模」、印章には「抱儀」とあるが、収納箱蓋に墨書がある通り、守約抱儀という画家の作品と考えられる。また、画面向かって右上には賛文は、嘉永2年(1849)3月に小澤精庵によるが、名前の前に「紫野」と記されるので大徳寺関係者であろう。
遠州の菩提寺・孤篷庵がある大徳寺では、茶匠や庭造りの名人として、江戸時代を通して遠州は尊敬され、多くの肖像画が製作された。本画もその一つが巷間(こうかん)に流れたものと見られるが、江戸後期の丁寧な模写で美術的な価値も高い。
[法量 縦39.2センチメートル×横51.2センチメートル]
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小堀遠州像 1幅 |
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田中吉政(1549から1609)は、浅井郡三川村(長浜市三川町)の出身。初め宮部継潤に仕え、のちに豊臣秀次(秀吉の甥)に転仕して5000石を与えられた。秀次の筆頭家老として八幡城に居城し、京都にいた秀次に代わって近江43万石の支配を行っていた。天正18年(1590)三河岡崎城主となり、57000石を宛行われた。慶長元年(1595)には子・吉次の領地を合わせて10万石を領した。
慶長5年関ケ原合戦では東軍に応じ、岐阜城攻め・関ケ原主力決戦・佐和山城攻略にも参戦、9月21日には石田三成を逮捕する。戦後これらの功により、筑後柳川城30余万石に封ぜられた。
この画像は、右斜め前を向いて上畳に坐している。地模様に巴紋を散らした白い小袖に、薄青色の袴を着用し、左腰に打刀を指し前に合口拵の短刀を帯びている。右手に扇子を執り、左手は打刀の鞘に添えている。左眼の下から鼻にかけて線があり、傷跡である。上下唇を縦に切断する傷と共に、秀次家臣時代に負傷したものである。摂津池田城下で、潜伏した不心得者を成敗した時のものという。秀吉は吉政の傷を見て、『汝、面ぬるかりしに、疵を蒙って勇猛の姿あらわる』と労ったと伝えている。(『続武家閑談』)
柳川時代からの重臣(一族)である田中治郎右衛門家に伝来したもの。この子孫は、田中家断絶後に彦根藩井伊家に仕え 250石を給せられ、評定所の評定役や弘道館の書物係等を歴任したという。本像は賛を欠くが、吉政が慶長14年(1609)2月18日山城伏見で没した直後に描かれたものであろう。
吉政の肖像画は、本像の他に柳川真勝寺蔵本が知られているが、真勝寺本は没後かなりたった江戸時代の製作であろう。吉政の姿を伝える本像の価値は、すこぶる高いと考えられる。
[安土桃山時代 縦71.6センチメートル×横34.0センチメートル] |
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田中吉政像 1幅 |
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この直槍は、造り込みは平三角となり、地肌が雲っていて判然としないが、鍛えは板目で、刃文(はもん)は直刃(すぐは)を焼いていると考えられる。
平に棒樋(ひ)を掻(か)き、塩首(けらくび)は六角で目くぎ穴は二個。銘は「江州坂田郡下坂(ごうしゅうさかたのこおりしもさか)」で、異説のあった下坂鍛冶の故地を坂田郡下坂村(長浜市下坂浜・下坂中町附近)であると確定した貴重な作品である。この銘をよく観察すると「坂」の字の特徴が、下坂八郎左衛門や兼先(かねさき)と異なり、別の下坂鍛冶の作品とみられる。
下坂村での鍛冶職の存在は、室町時代後期には確認され、天正年間から文禄の初めにかけて美濃の兼先を招き、槍等を量産した。慶長5年(1600)関ケ原合戦以降、下坂鍛冶は、越前(福井県福井市)・筑後(福岡県柳川市)・伊予(愛媛県松山市)など各地に分かれた。
この直槍は、天正年間(1573から92)頃の作刀と考えられ、下坂鍛冶の初期作品として、湖北長浜にとって大変貴重である。
[刃長 12.6センチメートル 反りなし]
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直槍 1本 |
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羽柴秀吉から遠山佐渡守へ宛てた12(極)月22日付の書状で、年号はないが織田信雄(信長の次男)や秀吉の関係から、天正10年(1582)のものと考えられる。宛名の「遠山佐渡守」は「延友(のぶとも)佐渡守」とも名乗り、東美濃の国人(国衆)と見られる。
本書は「本能寺の変」から「賤ヶ岳合戦」に至る経緯を物語る。秀吉は、この度自らと結んでいた織田信雄(三介様)が家督を相続するに際して、美濃国中の諸侍は残らず信雄に従うので、遠山も油断があってはいけない。また、取次として森長可(勝三=勝藏)を指名するので、承知するよう記している。
この記述は、同月20日に柴田勝家と結んだ織田信孝(信長の三男)の籠る岐阜城を開城させ、美濃国が秀吉の勢力下になったことと密接に関連があるとみられる。この開城の条件は、信雄のもとにいた三法師(信長の嫡孫)を引き渡すことであった。信孝から信雄に三法師が引き渡されることにより、信雄が三法師の名代として織田家の家督を継ぐことが、より現実的になったと考えられる。
清洲会議の結果、信長の後継者は、孫三法師(秀信)と決まったが、その名代として信雄が一時的に家督を相続するという認識が秀吉にはあったことを示す意味で興味深い。ただし、秀吉の本心は、信雄に政治の実権を渡すつもりはなかった。約4ヶ月後に迫った賤ヶ岳合戦に至る政治状況を説明するに際して、非常に重要な文書と言える。
なお、本書はこれまで知られていなかった新出の秀吉文書である。現在は二紙継の細長い書状となっているが、本来は折紙であったとみられる。
[法量 縦13.4センチメートル×横85.0センチメートル]
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羽柴秀吉書状 1通 |
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